池波正太郎をめざして

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明日は明日の風が吹く

今の心境にあわせてブログ名を変更しました。どうぞよろしく。肩の力をさらに抜いてやります。

教育の必要性について。これらの内容は卒業後にわかりました。

 コンビニで売っている、「別格 黄金鉄観」というお茶をこよなく愛するまさりんです。

 わりと映画評やテレビで見た番組の感想などを最近書いてきた。見た映画などが溜まっていたからだ。だが、本当は硬軟取り混ぜた様々なことを書くのがこのブログの目標であった。今回くらいは少し最近の傾向を外れようと思う。

 

 

 ぜろすけさんがシリーズ「国語教育」をブログに上梓されていて(語義的に「上梓」はまちがい?)、それを読んでいて思い出したことを書こうと思う。

 


国語教育についての雑感 - 無要の葉

 なぜ勉強をするのか、を考えるためには、何を勉強するのかが理解できていないと話にならない。私見だが、私たちが勉強で学んでいるのは、「ことば」と「歴史」だ。算数や数学でも同様だ。

 私たちが学んでいる算数や数学は、遙か太古から人間が作り上げてきた体型だ。0はインド人が作った。1,2,3・・・・・・という記法はアラビア数字だし、代数法や三角法はイスラムで発展した数学だ。日本人はざっくりと「西洋のもの」というイメージを数学に持っているが、西洋以外の文化圏・文明圏の影響も大きい。高校三年生まで、私たちは数学の歴史を辿る旅をしているのだ。そのゴールは微分積分だ。積分は中世くらいには成立した分野だ。確か、土地の面積を測るのに使ったものだ。微分は17世紀くらいに成立する分野だったと思う。微分は変化量を計る、のが基本であったと思う。この考え方は写真の修正などで使われると、本で読んだことがある。

 同時に数学で学ぶのは「数学語」と呼んで差し支えのない特殊な言語を使用している。1+1=2も、和訳しなければならないほど特殊な言語だ。動詞である「+」の位置も、日本語にするときに何になるのかわからない「=」(もしかするとIFか?)も、日本語とは使い方が違う。こういう言語が和訳しなくてもすっと頭に入る人間を「数学センスのある人間」と呼ぶのだろう。もしも算数がわからなければ和訳すると分かりやすくなる。教員はこの観点を知らないから、生徒が数学が分かるようにならないのだと私は思う。つまり、教師が下手くそなのだ。もっとも、中学生くらいになると和訳が追っつかなくなってしまう。だから、急に数学が難しくなるのだ。

 だから、もし消失ブログの書き手が数学の教師になれば、ぜろすけさんたちの言うとおりで、言語的な能力が欠如しているので、今までの数学教師のように、数学の分からない生徒を続出させることだろう。

 個人的なことを書くと、三十代になったいまにして、小学生のときの算数が一番難しかったと思う。たぶん、こういう風に分析することができなかったからだろう。開眼したのは、高校くらいのときか。相変わらず数1から難しいと思っていたが、二次関数の文章題の意味がわかったときから、なんとなく数学もおもしろいと思うようになった。もちろん、学者先生のように数学の新しい分野を開拓する才覚はないのだろうが。これは、先ほど書いた「数学センスのある人間」がやる業なのだろう。

 

 とにかく、数学も含めて、高校までの基礎学習の目的は「ことば」と「歴史」を学ぶことに主眼がある。数学はかなり特殊だが、理科社会などは専門的な用語を知るというところで同様である。

相当の単純労働やスポーツを除いて、この「ことば」と「歴史」の集積する所に各職業が存在するのである。だから、理系だからとか文系だからとか言わずに、諸分野の学習をしなければならない。

 それにたぶん、消失ブログの書き手は理系といっても私立の人間なのだと推測されるのだが、私立の入試にしても、「各教科を全て学習している」という前提条件があるもとの抽出試験なのである。やらなくてもいい訳ではない。

 

 さて、国語の学習だが、これがくせ者なのは間違いない。大学入試まで、国語の学習の主眼は「正しく読解する」である。この形式で入試しているのは、日本と韓国だけだという話を聞いたことがある。日本の場合、国語の試験というのは、すなわち「標準語の試験」という側面があるような気が、今してきた。よく知られるように、日本の大学入試というのは外国の知識を素早く吸収することに特化した形式になっている。外国語ではないが、そこには古文も含まれるのだろう。そして正しい標準語で吸収したものを頒布できる学者の育成を目指したのかもしれない。なにせ、明治維新当時、青森の人間と鹿児島の人間は会話が不可能だ、と言われるほど方言がひどかったらしいから、それぞれの地方の言語で話されると、会話が流れるように、とは行かなくなってしまうのだ。

 

 このような事情が終了すれば(つまりほとんどの日本人が日常的に標準語に近い言語を使用するようになれば)、本来国語の試験というのは「この文章を読んで、自分なりに分析をし、解釈せよ」という文章問題になるはずである。ちなみに日韓の他はこの形式で母国語の試験をするそうである。この形式ならば、「分析」の部分で、正しく読めているかが分かるわけである。そして情報発信能力も「解釈」の部分で判断できる。もちろん、この解釈は正解かどうかではなく、上手に自分の考えが発信できるかになるということだ。

 そして、ぜろすけさんの「俺には夕焼けがモスグリーンに見える」現象もこれで採点可能になる。ぜろすけさんの話の前提は、「先生が一人」であるからだ。何人もの先生が、採点する文章問題になれば、点数にある程度の客観性が担保される。それにどうやるかは想像がつかないが、表現力が豊かで夕焼けがモスグリーンに見えるということに説得力がつけられる表現ができれば高得点が可能だ。得点できずに「それでも俺には夕焼けはモスグリーン」的な人間はそれを抱いて成長すれば良いじゃない、ということになる。もっとも点数はつかないが。ここから先の作業は両親の仕事だ。

 

 まとめると、国語教育、古文の教育が必要かどうか、と問われれば、授業は必要だが、試験はもう少し工夫した方がよいということになるのだろう。

 はよ小説書けよ。はい書きます。