まさりんがやってくる、ヤァヤァヤァ。こんにちは。
村上春樹さんのブログ、おもしろいですね。なるほどと思わされるものがあります。「はてな文芸部」部員としては、この質問には引っかかるものがありました。自分なりの答えを書きたいと思います。
簡単な内容なので、読みに行ってちょうだい。
まあ私の意見もほとんど同じだ。
人間って、文脈のなかで生きているのだと思う。重要な人生の選択にしても、常識という文脈や世間という優しくも厳しいまなざしを受けて選択をしている。人生の選択もそうだった。これが近代だろう。
高度成長期やテレビが全盛のころはよかった。「よかった」というより、単純で済んだ。人々が向かう先も一つだった。文脈がほぼ一つだったのだと思う。同じような家に住み、同じような車に乗り、同じような家族構成をしていて、同じような給料体系で、というように似たような人生を送るのだろう。それに応じて文脈を作れば良い。それが物語になるのだと思う。
ただ、高度成長期後には始まり、バブル崩壊後に決定的になったように、人生が多様化した。といえば聞こえが良いが、結局はこの「同じ」人生を多くの人々が送れなくなってしまった。それに応じた文脈が用意されなければならないと思う。
本来はこの状態が社会として「普通」なのである。選択肢が一つしかない、というほうが、異常なのだ。けれども、人々は「正しさ」を確信できない分、おびえ傷つきやすくなっている。そんなとき、「癒やし」の物語が必要になる。
人生の指針と癒やし、この二つが私が考える物語の必要性だ。
漫画の物語しか摂取出来ないという人は、活字が苦手というより、傷つきやすいのかもしれないね。漫画はそういう前提で書かれているものが多いからね。