今日の十分日記

今日の十分日記

原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

もう大人なんていないんじゃないですかね。ドラゴンボール論から考えました。

 雨に何とか間に合ったまさりんです。(冒頭文は昨日書きました)

 この時期は、雨が降ったり止んだりなので、その合間を縫って、運動などをすることになります。雨はさほど嫌いではないのですが、ジョギング中に降られると、一気に体温が下がり、風邪を引きそうになります。それ以外にも当然やらなければならないことがあるので、予定を組むのが大変なんですけど。今日はなんとかやりくりしました。

 さて、今日は「大人について」考えてみようと思います。

 

 

 先だって、ドラゴンボール論をブログでぶちまけている方がいました。そのブログの骨子は「魔人ブゥ編の価値」についての話でした。一般的には、「ピッコロ編」か「フリーザ編」で終了したほうがいいというのが共通する見解のようです。Dr.スランプの「Dr.マシリト」で有名な、名物編集者鳥嶋氏がインタビューで、「ドラゴンボールフリーザで終わっていたら、もう一作鳥山明は書けただろう」という主旨のコメントを出して、それに対する反論であるようです。

 

d.hatena.ne.jp

 

 ドラゴンボール論の是非については置きましょう。というより、ブゥ編は読んでいないので云々できません。こんど漫画喫茶にでも行って読んでみたいと思います。

 実は行ったことがないのです、漫画喫茶。ただ、自分が小説を書く上で、もう少し漫画に対する理解や知識があったほうが、書きやすいような気がするので、いつか漫画喫茶に籠もろうと思っています。漫画体験はGTOで止まってるんですよね。

 

 余談でした。

  だから、今回はもう二〇年近く前の作品になってしまったドラゴンボールのなかの「あでのい」氏があげている定義を、現代に当てはめたら、というお話です。

 

 ドラゴンボール論のなかで、悟空が体現する「子どもの論理」のなかに、「大人」が侵入してくるという話が出てきます。その「大人」の象徴がミスターサタンなのだそうで。もちろん、このキャラクターの絵ぐらいは見たことがあるのですが、どういう人物かはわかりません。ただ、この人物が魔人ブゥとの戦いのなかで、「敵との交渉と懐柔」「大衆に向けた扇動と演説」という手を使います。

ブゥに対し、ミスターサタンは下手に出て、交渉します。「人を殺したり、家を壊したりしちゃいけないですよ、やっぱり」と。なぜかサタンの交渉は成功して、ブゥは破壊活動を止めると約束します。

 また悟空は「元気玉」というワザを使いますがが、このワザのためには地球にいる人々や草木などから、すこしずつ「元気」を分けてもらいます。地球の人々の許可を得て打とうと思ったのでしょうか、(始めはこんな交渉は無く、勝手に「元気」を使っていたような気がするが)あまり地球の人は協力してくれません。「地球がどうなってもいいのか、バッキャロー」と激高する悟空に対し、大衆が「なんだと馬鹿ヤローだと」、「あんなの無視、無視」、「人に頼むのにでかい態度だぜ」、「もしかしたら魔人ブゥのことも、ぜんぶほんとはなかったんじゃないのか!?」、「そうだ、集団で催眠術にかけられてたのかも・・」と反発します。それを収拾するために、サタンは自分の名声を利用して大衆から力を借りるのです。これもまんまと成功します。

「あでのい」氏はこれらが大人のなせるワザであり、あくまで己の拳の強さで闘う(子どもの論理で闘う)悟空と対置させているのだろう、と読んでいます。悟空と対置しているのはたぶんまちがいないのですが、問題はこれが「大人」だというところに違和感を持ちました。「あでのい」氏には「大人」ってものがどういう風に見えているのだろう、と。ここで出てくる「大人」の定義というか、世界というのは、「欺瞞」・「不純」・「不穏」などで定義されてしまうものなのでしょうか。

時代によって「大人」は変化していきます。

 本当に江戸時代、いやもっと前の時代、「大人」は「村の世話役」という意味がありました。農村では四〇歳くらいになると引退をします。機械のない時代、ましてや栄養状態が今ほど良くない状態、何十年も農作業に従事すれば、四〇歳で身体にガタがきてしまうのです。そして引退後、村の重要なことを決定する役割です。もちろん、村や家族を守っているのですが、村の論理を優先するために家族でも犠牲にすることはあるでしょう。つまり、今「家族を守る」というのとちょいとニュアンスが違う気がします。ここでいう大人の定義は、「社会に貢献している」、「責任のある立場」を指します。もちろん、現代にこの基準を当てはめると、後者においてほとんどの人間が大人にならないことになります。

 もっと時代が下って、一九八〇年代から九〇年代には、差別を前提とした「大人の条件」が定義されていました。それは「経済的自立」です。この時代には女性は結婚後、家庭に入る人が多く、収入があっても家計の足し程度でした。つまり、成人の半分近くは子どものままだということになります。「自立」というのは、「誰の厄介にもならない」ということですから、「家族で成立している」ではこの条件は満たせないことになります。

 もう〇〇年代になると、経済情勢が変化して、結婚後も働き続ける女性が増えていきます。しかし、それは女性が自立を意味するのではないのでしょう。女性一人で子どもを養って行くには収入が足りません。男もそうです。大半の男の収入がそれには不足しています。男女で協力せずには家計は成立しないのです。そうなると、「経済的な自立」は今の大人の条件にはなり得ない。だって、成人の若者の四人に一人は非正規雇用でしょう。

 「誰かを守っている」というのが大人の条件である、というニュアンスを「あでのい」氏は書かれています。「家族を持っていて、家族を守る」ということでしょうか。もちろん、ドラゴンボールは九〇年代の漫画である以上、上記の定義である「(差別を含んだ)経済的な自立」が通用してもよいのですが。誰かを守っているというのは、大人に限った話ではないでしょう。一〇代だって恋人のことを守ることがあるでしょう。

 

 「ドラゴンボール論」のなかで「子ども」の条件、ドラゴンボールの正義としてあげられている条件についても検討しましょう。その逆が大人の定義になるのかもしれません。それは「ただ強い敵と戦い、絶対に負けないために戦う」、「楽しく戦っている奴が一番偉い」という理屈です。これはスポーツの世界ですよね。成人してもスポーツをやっている人間は多くいます。この定義に照らすと、錦織選手は世界有数な子どもになってしまいます。

 私が言いたいのは、「ドラゴンボールの世界の精算」という論旨を否定したいのではなく、そこから派生して、「大人ってなんだろう」と思ってしまったんです。人々の状況が複雑になってしまった今の社会において、大人の定義が実に困難だと思ってしまったんです。過去からある定義を当てはめても、本来感覚的には「大人」とみなされるべき人々も定義から外れてしまいます。

 いやむしろ、資本主義社会において、「大人」というのは不必要なのかもしれません。特に現代社会では。だって、高額なゲーム機にお金を払ったり、発売される度に、アップルの新製品を買う必要はないですよね。アップルウォッチでしたか、あれを発売された日に購入した男性を取材した映像をニュースで見ました。自慢気にしている顔は子どもそのものでした。もうちょっとブラッシュアップされれば別ですが、現段階でアップルウォッチを購入する意義はそれほどないでしょう。

不必要なものでも無尽蔵に購入し続ける人、つまり子ども、の行動によって今の経済は支えられているような気がするのですが。そうか、「無駄だってわかっていても、趣味などのために無尽蔵にお金を使う人間」を大人にすればいいのか。皆さんはどう思いですか。

※二日にまたいで書いちゃった。

 

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