まさりんです。先日の続きをアップします。
坪田氏の著書、「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶応大学に現役合格した話」を読んだ。ブログを書き上げたのが先なのであるが、結構見立てが当っていたのかもしれない。
前回は坪田氏の人となり、指導の下準備について書いた。今回は教育現場で最も大きな問題を取り上げる。保護者の問題だ。
(時間がかかりすぎて散らかった文章になってしまった。その点あしからず)
3,保護者の扱い
そのゴルフをやっている中学生の場合、入塾時と10日後の目標の単語・文法テストの結果発表を保護者と共に行った。入塾時の面談は本人・父親と、10日後の面談を父母と本人と行った。
実は保護者の扱いというのは、教育現場における重大な課題だ。しかも距離を詰めればよいというものでもなく、距離が空きすぎてもダメだ。子どもの学習を本人と学校・教師の問題でなく、家庭の問題であるという自覚を促し、教師はその手伝いをするというスタンスをとれることが理想的だ。
昔の教師というのは、「師匠」という位置にいた。尊敬と崇拝を前提にしていて、生徒と家庭は服従をするものだった。
西洋の教育制度の発展は宗教的なバックボーンがあり、主を背景に倫理的に押さえ込んでいた。日本の場合、明治政府がその位置に天皇を据えた。戦後、そのバックボーンが消失したために教育だけではないが権威がなくなってしまった。それでも、進学の生殺与奪を握ることで擬態の権威をもって教育がなんとか機能した。ただ、宗教的な権威とは違い、否定が可能な権威である。不良行為が70年代に横行したのは権威の擬態性のせいかもしれない。
この擬態の権威(権威に見えるもの)もバブル崩壊後の就職難で崩壊した。今や教員は生徒の手助け役しかできない。もしもいまだに大威張りで「お前はこの大学へ行け」とか指示を出す教師がいたら、その教師は偽物である。
家庭との連携を強めるために必要なことは、母親の支持を得ることだ。まだ育児や家庭の権限を有するのは母親であることが多い。父親の威厳はもはや存在しないが、母性はあまり解体されていない。子どもはどうしても母親の機嫌をうかがっている。
実際に学校での三者面談では教師の言葉よりも母親の気息をうかがってばかりらしい。また、母親が家庭で教師の文句を言ったどうかは、翌日の生徒の様子で分かるらしい。大体舐めた態度になる。教師は意外と気づいていない振りをしていて多くを見抜いているものである。生徒が優秀でない場合は。
番組では結果を発表する場に、母親を参加させてきた。思いきり坪田氏がほめる。我が子をほめられて嬉しくない親はいない。特に中学生は男子である。母親は男児に弱い。もっとも、坪田氏が招聘したのではないのかもしれない。招聘したのであれば、やはり現状の厳しさと闘ってきてその効果を自覚しているからだろう。
4、生徒個人との信頼の醸成
・ほめる
家庭との連携を強化したところで、次はいよいよ生徒との信頼関係の強化だ。
順番がちがうと思うかもしれないが、土台から作っていかないと、劣等生の指導はできない。
生徒と教師の信頼がないと今の高校生の成績は上がらない。昔なら小学生までの話だ。先生が嫌いだから勉強ができないという小学生は存在していた。今は高校生でもありうる話だ。青藍義塾では信頼を得るために、誉めるところがあれば、どんな小さいところでもほめる。そうすることで、厳しい要求ができるのだ。
坪田氏が他の講師を指導する姿にもそれは現れていた。実際にその後輩講師が生徒を個別指導をしている映像それを一緒に見て、映像をもとに指導したのだが、生徒との接し方について細かく指示していた。生徒の顔を見る時間が少ないという指摘をするのだが、信頼を得るためにはそういう工夫も要るのだ。学習の指導内容について細かい指示も出るのかもしれない。が、それは飯のタネなのでテレビでは出さないだろう。
実は保護者の扱いというのは、教育現場における重大な課題だ。しかも距離を詰めればよいというものでもなく、距離が空きすぎてもダメだ。子どもの学習を本人と学校・教師の問題でなく、家庭の問題であるという自覚を促し、教師はその手伝いをするというスタンスをとれることが理想的だ。
昔の教師というのは、「師匠」という位置にいた。尊敬と崇拝を前提にしていて、生徒と家庭は服従をするものだった。
西洋の教育制度の発展は宗教的なバックボーンがあり、主を背景に倫理的に押さえ込んでいた。日本の場合、明治政府がその位置に天皇を据えた。戦後、そのバックボーンが消失したために教育だけではないが権威がなくなってしまった。それでも、進学の生殺与奪を握ることで擬態の権威をもって教育がなんとか機能した。ただ、宗教的な権威とは違い、否定が可能な権威である。不良行為が70年代に横行したのは権威の擬態性のせいかもしれない。
この擬態の権威(権威に見えるもの)もバブル崩壊後の就職難で崩壊した。今や教員は生徒の手助け役しかできない。もしもいまだに大威張りで「お前はこの大学へ行け」とか指示を出す教師がいたら、その教師は偽物である。
家庭との連携を強めるために必要なことは、母親の支持を得ることだ。まだ育児や家庭の権限を有するのは母親であることが多い。父親の威厳はもはや存在しないが、母性はあまり解体されていない。子どもはどうしても母親の機嫌をうかがっている。
実際に学校での三者面談では教師の言葉よりも母親の気息をうかがってばかりらしい。また、母親が家庭で教師の文句を言ったどうかは、翌日の生徒の様子で分かるらしい。大体舐めた態度になる。教師は意外と気づいていない振りをしていて多くを見抜いているものである。生徒が優秀でない場合は。
番組では結果を発表する場に、母親を参加させてきた。思いきり坪田氏がほめる。我が子をほめられて嬉しくない親はいない。特に中学生は男子である。母親は男児に弱い。もっとも、坪田氏が招聘したのではないのかもしれない。招聘したのであれば、やはり現状の厳しさと闘ってきてその効果を自覚しているからだろう。
・ほめる
家庭との連携を強化したところで、次はいよいよ生徒との信頼関係の強化だ。
順番がちがうと思うかもしれないが、土台から作っていかないと、劣等生の指導はできない。
生徒と教師の信頼がないと今の高校生の成績は上がらない。昔なら小学生までの話だ。先生が嫌いだから勉強ができないという小学生は存在していた。今は高校生でもありうる話だ。青藍義塾では信頼を得るために、誉めるところがあれば、どんな小さいところでもほめる。そうすることで、厳しい要求ができるのだ。
坪田氏が他の講師を指導する姿にもそれは現れていた。実際にその後輩講師が生徒を個別指導をしている映像それを一緒に見て、映像をもとに指導したのだが、生徒との接し方について細かく指示していた。生徒の顔を見る時間が少ないという指摘をするのだが、信頼を得るためにはそういう工夫も要るのだ。学習の指導内容について細かい指示も出るのかもしれない。が、それは飯のタネなのでテレビでは出さないだろう。
他にも工夫がある。生徒ととの距離を縮めるために、生徒の興味のあることについて把握をするのである。例の中学生はタイガー・ウッズが好きである。10日間、問題集9冊をこなすうちどうしても中だるみをする時期がくる。そのときウッズの言葉を引いて、引き締めを行っていた。
ケレンが強いと感じるだろうか。いや、このケレンが大切だ。今の教育現場、実際には学歴偏重主義が強化されている。就職活動では学歴フィルターがかかり、ただでさえ大学全入時代である。大学に入るのが最低条件であり、よい大学に入ることが一流企業に入ることが幸福の条件だと、生徒の方が思い込んでいる。普通の教師はそれが嘘だと知っている。
というより、どこで働こうが、働くまいが、大多数が幸福などにはなれない。諦めて、満足するだけだ。そのような現状で教師ができることは擬態の権威を捨て、生徒の将来の手助けだけだ。ところが、劣等生の多くは自分の将来をどのようにするかという決定に迷うのである。考えてみれば当たり前だ。大半の人間が職業などやってみなければわからない。しかし、ごく少数が人生を決定づけてしまうような強烈な邂逅がある。その邂逅によって出現するのが、「夢」というやつだ。
今ある種の生徒の間で人気の教師は「夢」とかフワフワしたことを抜かす教師だ。本当は強烈な邂逅によって生れた夢は、「苦悩」でしかなかったりする。九分九厘失敗する夢にとりつかれるのであるから。だが、そういう邂逅にあったことのない人間にとって、「夢を持つ」というのはうらやましい行為なのだ。考えてほしい、本来の夢からは逃げられないのだ。一番楽になるのは夢に向かうことだ。ほぼ失敗するなと自覚しながら進むというのは苦痛だ。
人気の教師にとって「夢=目標」になっていることが多い。 これは常識だが、教師の言う夢は教師が認める夢だ。例えば、将来はジャニーズに入ると言っても、怒られはしないが、翌日から相手にされないだろう。つまり、現実的な決定を「それは強烈な邂逅による夢だ」と思い込ませる演出ができる人間が、教師として人気なのである。
(なんか相当学校に恨みがあるキャラクターだと見られそうだな。現実は覚めた目で見ながら、結構学校とは距離をとっていたキャラです)
ただ、生徒の信頼を得ようと思ったら、ケレンを躊躇してはならない。というより、やるよりない。
5,指導方法
・復習中心・個別指導
学習が苦手な生徒は必ずお手本が必要だ。
お手本を徹底的に反復演習するという作業が学習だ。それには復習を中心にして、学習方法をする必要がある。それは生徒に応じたものでなければいけない。勉強が出来ないというのは、この反復演習で挫折してしまうということに等しい。劣等生はどこまでも自分自身に言い訳をつくる。だから、生徒が自分には関係ないと、どこかで思ってしまう指導方法だと成功はおぼつかない。
これらを満たすには個別指導が理想的だ。大手の予備校では、講義式の授業スタイルである。が、後で書くが、将来的にはこのようなスタイルは消滅するだろう。なぜなら、就職の最低条件が大学卒業になるならば、大学入試をする人間が増える。つまりはその大半が学習が苦手な生徒になる。それに対応するのであれば、絶対に個別指導により近くなければならない。
講義形式は必ず教室内に必ず死角ができる。しかし、個別指導であれば(もちろん教師の質にもよるが)、死角ができにくい。成長の度合いにムラが出るかもしれないが、平均値のコントロールはやりやすい。つまり、底辺を挙げるという作業はやりやすい。
・反復演習につきあう
特に出来が悪い生徒の場合、この「つきあう」という作業が一番大変である。
実際に「那須与一」を知らない生徒や、偏差値30代の生徒というのと関わったことがあるが、とことんつきあってやらないと、普通のレベルまで行かせるのが大変である。
低レベルのことを知らないということは、普通のこともハイレベルなことも知らないのである。その事実と立ち向かい続けなければならない。
講義形式は逆に教師にとっても逃げ道を作る。三十人近く生徒が同じ授業を受ければ、一定数(一割くらい)の生徒は成績が向上する。この事実を持って、「成績が上がらないのはその生徒のせいだ」と現実逃避することが可能だ。もともと成績がよろしくない学校では、生徒と共に教師も逃避する。個別指導はそれも防げるのである。
坪田氏の青藍義塾の場合、個別指導+自主学習主体というスタイルでこの反復演習を徹底的に行う。だから成績が向上するのである。
教育の目的はいくつもある。よく言われるのは、団体生活の規律を教え、学力を涵養し、倫理観を育てる、などである。これからはこれらの指導場所が分化するのかもしれない。当たり前だが、時代が下れば必要な知識は増すのである。すべてを満たすには現状の教師の量では不可能である。
今の「工場制教育制度」では一定数の落ちこぼれが必ず出る。上記したが、工場的な教室には必ず、死角ができるからだ。それを解消するために、習熟度別の指導が行われた。しかし、これは教師側のやる気や能力に依存している。習熟度別の授業でのキモは「生徒それぞれに応じた指導プランを示す」ことにある。だが、上位層のプランを提示するのは容易だが、下位層に対するプランの提示は困難だ。意外に思うかもしれないが、指導法に関する蓄積が教育界にはあまりない。細かいデータやノウハウが共有される機会がない。だから教師個人の能力にほぼプランの質は依存する。下位層は恩恵が少ない。下位層は学習能力の状況が千差万別でこれに応じるプランを作成するには、かなりの力量が必要だ。
より高度な知識を有する労働者を育成するなら、完全個別指導を行うよりない。それが理想形だ。この場合、団体行動の規律などを教えるのなら、別個その機会を作るしかない。ただしだ。本当に団体行動を覚えることが、プラスになるとも限らない気もする。法律は絶対教えるべきだと思うが。
数十人を教室に閉じ込め強制的に学習させる「工場制教育制」はそう遠くない将来、崩壊するだろう。
数十人を教室に閉じ込め強制的に学習させる「工場制教育制」はそう遠くない将来、崩壊するだろう。
思いの丈をすべて書いてしまった。あまり読みやすい文章とは言えない。その点をお詫びします。最後までお読みくださってありがとうございます。
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