今日の十分日記

今日の十分日記

原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

「地獄の黙示録」

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 まさりんです。

 

 

 

 できる限りパソコンに向かって作業をする場合、集中しすぎないように、映画やテレビをつけるようにしています。受験勉強をしているときからそうなんですけど、一〇〇%集中してしまうと、長続きせしないのです。だから、特に勉強を始めるときは、六割程度の集中力になるように、ラジオや音楽を流しながら始めます。

 いまでもその癖が残っているのでしょう。

 先日は、驚異的なことをしてしまいました。簡単な書き物をしながら、「地獄の黙示録」を見ることに成功したのです。もちろん、字幕です。何度も見たことがあるからなんですけど。この感想を書いてみようと思います。専門家が書いているものではないので、気軽に読んでみてください。

1,基本情報

監督:フランシス・フォード・コッポラ

脚本:ジョン・ミリアスフランシス・フォード・コッポラ、マイケル・ハー

出演

ベンジャミン・L・ウィラード大尉:マーティン・シーン

ウォルター・E・カーツ大佐:マーロン・ブランド

ビル・キルゴア中佐:ロバート・デュヴァル

ジェイ・“シェフ”・ヒックス:フレデリック・フォレスト

ランス・B・ジョンソン:サム・ボトムズ

タイロン・“クリー”・ミラー:ラリー・フィッシュバーン

ジョージ・“チーフ”・フィリップス:アルバート・ホール

ルーカス大佐:ハリソン・フォード

コーマン将軍:G・D・スプラドリン

カメラマン:デニス・ホッパー

 2,あらすじ

 時代はベトナム戦争のころ。戦争というのは狂気だ。生命と生命のやりとりをする現場なのだから。が、平穏な日々の生活よりもシンプルであることは間違いない。そこに美しさを感じてしまうものもいる。だからか、戦争に魅せられてしまう人間も出てくる。ウィラード大尉はそういう人間で、一時帰国したウィラードは妻と離婚してまで、サイゴンに戻ってきてしまう。

 ウィラードは要人暗殺の任務に就く兵士です。呼び出されて、ある人間の暗殺を命令されます。その要人の名前はカーツ大佐。彼は出世頭だった自分の立場をなげうって、グリーンベレーに入ります。そしてベトナムに入り、そこで殺人を犯します。戦場殺人――。このジョークのような罪のためにウィラードは暗殺に向かうのです。つまりは、カーツは扱いにくい、もしくは明確な反逆だと判断されたのでしょう。危険分子だと。場所はベトナムを越え、カンボジアです。

 ウィラードは海軍の哨戒船に乗って、その場所を目指します。船長はチーフ(アルバート・ホール)、搭乗員はシェフ(フレデリック・フォレスト)、ランス・B・ジョンソン(サム・ボトムズ)、クリーン(ローレンス・フィッシュバーン)。そしてウィラード。

 チーフ以外はあまり戦場に慣れていない。始めはストーンズのサティスファクションを聞きながら、躍りまくったりして余裕綽々だが、徐々に深みにはまっていく。

 五人は「不死身の男」ギルゴアが、サーフィンをやりたいがためにナパーム弾を森にぶち込むのを皮切りに、戦場のイカれたものを見ていく。戦場だというのに、プレイメイトが慰問に来るのもイカれているし、指揮官なしに攻撃をしている砦もイカれてる。そのうち、舟に乗る人間が一人ひとり殺されていく。

 カンボジアの森深くにいるはずのカーツは、王国をつくっていた。そこから、米政府批判を繰り返していた。

 

3,感想

 一つの戦争を、二時間あまりの作品で描こうというのがちょっと狂気です。コッポラはインタビューで「途中で何を撮りたいのかわからなくなった」と語ったそうです。ちょっと物語や設定に関して考察してみましょう。

 とにかく、クリーンな人間、まともな人間がいない。

 この有様は、「戦争のための戦闘」という矛盾している状態です。前線に行けば行くほど、命令も指揮も届かなくなる。だから、前線の兵士は自分がなんのために敵と戦い、なぜ人殺しをしているのかがわからなくなっているのです。

 シビリアンコントロールの利かない状態は、日本も経験していますね。第二次大戦のときの関東軍の暴走と言われるヤツです。イラク戦争でも、前線の兵士は命令があったかどうかわかりませんが、捕虜虐待をしていました。しかも女性兵士だったことは、結構ショッキングに扱われました。戦争などはそういうものなのかもしれません。

 また、黒人ほど早く死んでしまうというのも戦争を象徴していました。以前も書いたと思いますが、経済的徴兵の状態で、貧乏な人間ほど戦場に行きます。そして前線で戦う。そういう様子が描かれていました。

 

 あの映画を二十代前半か、十代後半で見たときに、友人と話して「これはアメリカの侵略をよく描いている」という結論に達したことをおぼえています。領土的支配だけがアメリカの欲望ではないんですよね。市場開拓の様相が強い。必ず音楽や映画、そしてプレイボーイのような、アメリカの魅力のあるソフトパワーを使って、虜にするのです。日本もそうでした。戦後はみんなアメリカの文化を意識せざるを得なかったですよね。アメリカの植民地化政策とはそういうやり方なのです。

 のちに「地獄の黙示録」は完全版が出たとき、ベトナムが植民地支配されていて、その家族が食事をするというシーンがありました。アメリカがいろいろな大義を掲げて戦争をしているのは所詮は植民地化の一形態だということです。とても親切なそういうシーンが挿入されていて、「これはどうだろう」とも話し合いました。

 ギルゴアなど、魅力的なキャラクター満載の映画なのに、この作品を見て戦争がしたいと感じる人間はいないでしょう。それはたぶん、死に行く人を妙に美化していないからだと思います。物質的な損失とそれに伴う痛みを描く、そういう扱いです。始めのギルゴアのいるあたりでは、死者を美化するような扱いがあります。が、ジャングルを進めば進むほど、それはなくなっていきます。

 そんなことを感じたのを思い出しました。

 どうしてDOORSの「THE END」が使われているのかなと昔から思っていたのですが、幾つもの意味がかけられているのでしょう。

 


The Doors - The End (original) - YouTube


The Doors - The End (Toronto, 1967) - YouTube

 戦争の終り、米国のよき時代の終り、カーツの終り、王国の終り。それになんとなく、あの曲って、西部劇っぽくありません? カーツが悪でそれを倒すっていうのもかかっているのかな、と久しぶりに見て感じました。

 

 

 

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