今日の十分日記

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原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

選択的夫婦別姓ーー十分日記95

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先日から、選択的夫婦別姓の論議についてかすまびしい。

その「反論に対する反論」というのが上梓され、その「反論に対する反論」に対する「反論」というのが登場され、短編小説の集いでもお世話になっているふのいさんがそれに対する補足をするように見せかけて、何も書かないというトリッキーな記事をあげた。思わず、「何も書かんのかい」と突っ込んでしまった。

 

 

fnoithunder.hatenablog.com

 

面倒なので、前者をA、後者をBとしよう。

Aの記事の投稿者は、サイボウズの社長さんなのかな?、が裁判を起こすということで書いたという、鼻息の荒い話である。ただ、読んで見ると、反論の前提部分で間違っている部分があることは書いておこう。

 

note.mu

 

「伝統的な家族制度と相容れない」ということを書いているが、日本の夫婦が同姓になったのはそれほど古くはない。もしかすると、近代以降かもしれない。

近代以前は、おそらく女性は姓で認知されることは少なかった。平安時代の貴族の系図に至っては、名前すらなく、単に「女」と記載されるのみだ。北条政子は源ではないし、実家の土地を相続すらしていたと思う。日野富子も、源ではない。だが、実際に正子も富子も、北条でも、日野でも、源とも認知されておらず、単に奥方だったのかもしれない。

 

江戸時代は言うに及ばず。庶民に姓はなかった。

むしろ、明治時代に女性や庶民に姓を与えられたのは、進んだ行為だったのかもしれない。少なくとも、当時の人はそう思ったろう。

 

Bに言及しよう。

 

plagmaticjam.hatenablog.com

 

Bの面白いところは、個人の姓という問題からもう少し鳥瞰的な視点で、イエ制度に踏み込んでいるところだ。「家」ではなく、「イエ」と書いているところがミソだ。ところが、「イエ」が何を意味しているのかがわからない。この手の文章でわかりにくい場合、難解な語句や一般的には使用しない個人的な語句の使用の説明が不足していること、そして文章の構成自体が読みにくいこと、この二つが理由の場合が多い。

 

私は全時代を通して存在してきた、家族の共同体を意味する「イエ」として読み取った。家族の拠り所といっても良い。

その「イエ」が崩壊して良いのか、という問題提起だろう。

 

AとBの書き手の両者に共通する誤解がある。

それは制度の設計は、統治者の有利に展開するということだ。

要するに、国家にとって都合がよいかどうかで決まるのである。

課税が個人に課され、社会保障が家単位で行われることを見ればわかるだろう。

 

夫婦が別姓になるには、条件があって、それは徴税などの管理をするときに都合が良いということだ。

達成のためにはそれだけの情報処理能力がなければならない。その能力がなければ、別姓にはならない。

また、その方が租税が多く徴収できるのであれば、別姓になるだろう。

情報処理に関しては問題がない。共働きになっているので、各種配偶者控除を廃止し、別姓でそれぞれ処理した方が、税収は上がるかもしれない。

 

経済の要請もある。

経済は有史以来、一つの方向に向かって進化してきた。それは、経済主体の増加だ。経済主体をわかりやすくいえば、労働者プラス消費者と思って良い。経済の消費に参加するプレイヤーが多くなるように制度が変化している。一般市民にまで爆発的に増えたのが近代だ。

男が中心にプレイヤーだった時代は飽和したのである。だから、女性を取り込む方向へ動き、やがて障害者などにも手が届くようになる。最終的には子供にも大人と同等の権利が与えられるだろう。そのときには、Aの記事のような人が現れて、子供のために訴訟を起こすのだろう。

一段買い戻す。

女性や障害者をプレイヤーとしてとりこむためには、(特に後者はそうだが)それぞれを補助する技術の進化が不可欠だ。本当は女性に必要なのは、男性の助けではない。

AIの発達によって、家電がもっと発達する可能性が出てきた。今、洗濯をしながら書いているが、もしかするとAIが洗濯機に洗濯物を入れるところから、干す(乾燥)、畳む、しまう、という一連の作業をこなすようになるかもしれない。料理もそう。皿を洗って、片すところまでやるのかもしれない。人間型のAIは子育ても手伝ってくれ、赤ちゃんのオムツを替え、夜泣きに対処し、もう少し成長すると友達になり、教育までこなすようになるかもしれない。

 

とにかく、長い目で見れば、確実に「夫婦別姓」の方向に向かっている。それによって、従来からのイエは崩壊する。ただ、それが良いことか悪いことかは関係ない、というのが実情なのだろう。イエが存在していたのも、農業や戦、そういうもののためにはイエというものの存在が不可欠だったからというのが本質的な理由で、そこが拠り所だというのは副次的に発生したことだ。その拠り所は、極端なことを言えば、2ちゃんねるでもなんでも良いのだろう。

 

そして、さもそれが発展的な権利取得であるように人民に思わせるというのが、近代以降に発生した人権の作用だ。つまり人権は説得のために方便なのだ。

 

最初に割りを食うのは、自分の取り分の一部を差し出さねばならない健常者の男性である。

上記Aの著者は、健常者男性なのに、せっせせっせと自分の取り分を女性に献上しているのが、一番奇異な行動だ。いったい、彼は何を考えているのだろうか。

とにかく、私のなかで陰謀論がブームなのである。