池波正太郎をめざして

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明日は明日の風が吹く

今の心境にあわせてブログ名を変更しました。どうぞよろしく。肩の力をさらに抜いてやります。

「九年前の祈り」感想

 アイコン変更&桜の開花予想が今日出ることを予測していたまさりんです。

 

 アイコンを招き猫にしました。これが件の豪徳寺の招き猫です。本当の猫に近い造形になっていると思います。上から撮影しているので、かなり見上げているのが分かると思います。

 

 今回はやっと読み終わった、芥川賞受賞作「九年前の祈り」の感想を書こうと思う。

 「九年前の祈り」とは、九年前の旅行での祈りのことである。主人公さなえは同じ町内の四〇~五〇代の婦人たちを引率してモントリオールへ旅行する。それは大分のある待ちに外国語の補助教員としてやってきていたジャックの発案だった。

 めったに外国に行ける人たちではなく、大はしゃぎで旅行を楽しむ。旅行中“みっちゃん姉”の息子の話をさなえは知る。みっちゃん姉の息子は子どもの頃の発育が悪く、長じてからも勉強も運動も不得手で叔父とゴミ収集の仕事をしている。“不得手”と表現したが、“不得手”というレベルではなかったのかもしれない。ただ、この旅行の同行者などが近寄るといつも嬉しそうにするなど、人柄は好かれている。

 ある日同行者が行方不明になってしまい、モントリオールの教会前でみっちゃん姉は祈る。迷子のおばちゃんたちの無事を願うにしては長い祈りにさなえは別の意志を感じる。

 後年、みっちゃん姉と同様の状況にさなえは置かれる。

 旅行から九年後、みっちゃん姉の息子は病気になり、大学病院に入院している。それを見舞うために、さなえと息子希敏、両親は大学病院へと向かう。その最中、さなえはみずからの来し方を振り替える、という内容だ。

 

 文章の書き方が独特である。この段落の前には一列空きがある。これは意味段落の切れ目がそこにあるからだ。本作はこの切れ目がなく、人の意識の流れを自然な形で表現している。が、慣れない内は話があちこちに飛ぶように感じられる。

 

 少々、山田詠美の選評から引用しよう。

 『九年前の祈り』。男のいいとこ、まるでなし。何度も〈引きちぎられたミミズ〉と表現される幼い息子や、その父親など、主人公と関わりあうすべての男たちが、「男から目線のステレオタイプ」のようい私には思える。その分、女たちの存在感がすごいが、その存在感が私には「作者のひいき目」のように思えてしまうの。〈発酵しつつあった恋に酩酊していたのだ~(中略)あれは発酵でなく腐敗だった〉・・・・・・ああ、そうだったんですか、と鼻白むしかないが、この作者は、あくまで女の味方のように、彼女を生まれ変わらせる。その静かな再生の気配に寄り添えるのか、否か。私は残念ながら後者であった。

 

 

 

 この「男の描写がステレオタイプ」というのが私には始めピントこない表現だったが、“ありふれた設定”くらいの意味だろう。昔米軍兵士が占領時代に同様の事例があったようだから、それを言っているのだろう。結局、希敏の父親は母子をおいて消えるのであるのだが、最近の男性では外国人であろうが、こんなことは許されないのでステレオタイプとも言えない気がする。逆に外国に連れ去ってしまうくらいだ。母子が邪魔だとも単純には言い切れない。

 希敏はハーフでジャックの友人との子どもだ。子どもができたあと、別に女を作って出て行く。ただし、これはさなえの類推でしかない。なぜ夫が出ていったのかが明確には分からない。類推の根拠が示されないのだ。別の描写として、希敏の三歳健診を受けるように電話が来るのだが、その電話に早苗が苛立つというものがある。まるで希敏になんらかの障がいがあるのを受け容れられない、というように読めてしまう。これが原因なのではないか、と勘繰ってしまう。

 

 とにかく私にとっては感情移入しにくかった作品だ。おそらく全てが中途半端だからだろう。きっと最後は希敏の存在全てを受け容れて終わる。ただ、同じように障がいを持った子どもを抱える人たちの思いを代弁し、他の人々にも何らかの訴えをしようと思ったら受け容れた後のことを書いた方がいいだろう。

 個人的には愚図な娘を持ったさなえの母親に感情移入しかけた。子どももいないのにどうしてだろう。あのお母さんが一番おもしろかった。このお母さんだけでも一読の価値があるだろう。

 同時収録のテレ東大橋アナの一ヶ月日記もおもしろかった。人柄が良く出ていると思う。