朝ジョギングをして調子が良いまさりんです。
昨日は短時間だけど、濃密な睡眠が取れたんだよね。おかげで疲労はすっきり取れました。このまま一日を凌ぎきりたいと思います。
さて、今回は気になった記事を読みながらとったメモ書きをアップします。
※あくまで個人の感想です。客観的なデータなどはありません。
この記事です。
主に二つの事件についての考察が中心です。一つ目が、鳥取の養護学校で、六人もの看護師が一斉に退職してしまったということ。もう一つは、銀行でどうやら来店した芸能人の情報が流出してしまったという事件。
前者はどうやらいわゆるモンスターペアレントの問題も絡んでくるみたいです。養護学校には痰の吸引や、医療行為を必要としている生徒(児童?)もいたみたいです。その医療行為が人手不足のため、数分送れてしまったのだそうで、それに対して恫喝とも取れる行為が行われてしまって、その恐怖から一斉に皆がやめたらしいです。
後者は窓口で働いていた非正規雇用の人間が流出させた事件です。
記事では「非正規雇用にまで過剰な倫理観を求めるのは窮屈だ」的なトピシューさんのコメントがついていました。個人的には「?」なコメントです。
倫理の話はさらに他の話に繋がっていきます。
とある専門学校の教師が、待遇改善をしてもらえないので教師を辞めてしまったようです。なにせ、交通費>授業料な状態だったみたいです。辞めることをチラつかせると、「みんなお金がもらえなくてもやっているよ」という定番の説得力のない説得をされ、ぶっちぎって辞めたそうです。
さて、三つの事件を並べると倫理の話になっているようで、根はもっと深いのかもしれません。日本の文化と関わっているのです。いくつか考えてみましょう。箇条書きしてみます。
<1,倫理につけこむやり方>
・いまや日本企業はこれのみで回っている。
・「生徒のため」、「患者のため」、「顧客のため」という言葉に弱い。
・というか、そういう雰囲気に弱い。
<2,差別を前提とした統治>
・正社員と非正規雇用を区別し、差別意識を利用してガバナンスをしている。非常にいやなやり方。
・スタバが店員を全員正社員にした。報道では「人材確保が目的」という部分が強調されていたが、外国人からすれば完全に差別なのではないだろうか。だからやったということはない?
1は、日本独特なのかもしれません。島国の狭い世界で我々は生きているので、とにかく善意を要求されていきます。狭い世界が悪意で満たされてしまえば、悲惨なことになります。逃げ道がないので従わざるを得ないのです。
そのガス抜きのために2があります。外国では同じ仕事の収入は同じだと思います。蛸壺化した組織のなかで、これは重要なんでしょうね。もちろん、昔から日本でも外国でも、為政者は巧みに差別を利用していたようです。
ではどうしてこうなってしまうのか。日本人を苦しめている要因は何なのでしょうか。箇条書きしてみます。
<1,超経験至上主義>
・初めは経験を積むためにお金が儲からなくても、無理して場を経験しなければならない。
・記事中に専門学校の教師を辞めたという話が出ていたが、損したのはもしかすると辞めた方?
・知識を軽視しているのだが、知識だって経験の集積なんだけどね。
<2,英語がしゃべれない>
・結局、これだけ実績が上がっていない日本の企業が、左団扇で優秀な新卒を切り回せるのは、ライバルが国内にしかいないから。英語が話せるようになると、たぶんどんどん人材は外国に流出するのではないか。
・せっせと英語を学ばせている、ユニクロや楽天は、人が良いのだろうか、それとも。
・日本の若手中堅は優秀だと、外国人も知っているだろう。
<3,経営者が無能>
・経営は無能。リーダーになる訓練をしない。「出る杭は打たれる」的慣習が邪魔。
・むやみに威張ったり、他人に仕事を押しつけるだけ。
・倫理観につけ込むやり方は、リーダーが身銭を切って部下を養ったり、庇ったり、可愛がったりしなければ成立しない。飲みにケーション以外でね。
この三つの要因が、過剰なマンパワーに頼る原因になっているのではないかと思います。特に実は2が一番大きい気がします。このせいで島国根性も温存されてしまうのですから。我々は日本語という壁に囲まれて、逃げ場がなくなっているのです。逃げられないから、高い倫理を求められる。自分の能力もたたき売りしなきゃいけない。英語ができるだけで結構状況が改善するんだろうね。
倫理に頼るのであれば、やはりリーダーの資質は重要です。もっとも高潔な人物がなるべきです。能力も高く、部下のことを自分よりも優先する人物でなければ、このようなやりかたは成立しません。
最終的にどうすればいいのか。
無駄に働かされるのはイヤですよね。もう結託するしかないです。非難されても、鳥取の看護師が一斉に辞めたというやり方が正しいのだと思います。誰も障害者のことを考えないような社会もどうかと思うけど、仕事は一人一人がやり切れる範囲であることが理想的ですよね。
西洋は絶対神ですから、人間ていうのは基本的に不完全なものなんですよね。だから、「人間には限界がある」という前提で様々な事を組みます。逆に日本は人間が神様になれる国です。菅原道真しかり、将門しかり。だから、いつも「日本は限界を超えることがある」という前提があります。漫画なんか見たって、少年誌はそういう内容がおおいですよね。
だから、マンパワーに頼ることに対する罪悪感がなく、むしろ美徳である、という感じがある。司馬遼太郎の小説でもそういうところがある。実は司馬遼太郎自身はそういうことに否定的であり、あくまで驚嘆すべき出来事として、限界を超えてマンパワーが発揮された事例を挙げているような気がします。第二次世界大戦になぜ負けたか、という分析を読んでいるとそういう感じがします。しかし、読者はそういうことは起こりうることだと捉える。正に文化の差ですよね。
そういうことに自覚的であるべきなのです。