今日の十分日記

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原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

一流と三流の差ーー十分日記237

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今月号の公募ガイドを買った。

一時期、エッセイのコンクールに応募しまくっていたことがある。結果はすべて惨敗であった。その時期に公募ガイドを買い始めて、毎月ではなく非定期に購入している。

 

公募ガイド 2019年 05 月号 [雑誌]

公募ガイド 2019年 05 月号 [雑誌]

 

 

今回は新年度になったということで、どんな応募があるのか、一応見ておきたくなったということ、あと小説などのキャラクターをどのように造形していくかというテーマの特集があったので、目を通すことにした。

よく小説家などの著名人がインタビューに答えることがあるが、山崎ナオコーラが今回であった。ずっと、金の話をしていたという印象が強いインタビューだった。お金を儲けて自立をしたかったらしい。ところがいまの若い人は金儲けよりも趣味など内面の充実を重視する傾向にあるという分析だった。そういう内容に近い小説を書いたらしい。

 

趣味で腹いっぱい

趣味で腹いっぱい

 

「登場人物の造形をあらかじめしますか」という問いに「ほとんどしないっすね。そういうの邪道っす」的な内容の返しをしていて面白かった。

 

 さて、インタビューやら登場人物の肉付けの話を読み(正直あまり参考にならなかった)、文章講座などに進もうと思ったとき、あるコラムが目に留まった。

「若桜木虔(わかさきけん)の作家デビューの裏技教えます」というものだった。この回は実際に新人の作家の作品を例にして、「『そして』、『しまう』を使うな」という文章を書いている。

www.koubo.co.jp

確かに、「そして」や「しまう」を多用するのはよくない。接続詞をなるべく省略した方が読みやすいのも間違いない。しかし、文章自体がなんともマウントを取りに行っているようで不快なのである。(ちなみに「のである」を多用するなとも書いてあるが知ったことではない)

 名作といわれた和歌や俳句に「そして」「だが」「しかし」が入っている作品が一つでもあるか? と考えてみれば、接続詞の多用がダメな理由はわかるだろう。

 意味が不明だ。和歌や俳句がどうして出てくるのかわからない。

 

同時に今、沢木耕太郎の書評を読んでいる。「作家との遭遇」という本である。

 

作家との遭遇 全作家論

作家との遭遇 全作家論

 

 

名だたる作家のあとがきなどで書かれたものがまとめられている。向田邦子や山本周五郎、田辺聖子、塩野七生、山口瞳、色川武大(阿佐田哲也)などの作家論を沢木耕太郎ならではの視点で書いている。

この本のなかでも、作家のだめな部分を指摘したりする。だが、それは後に続く、良い部分の評価への伏線になっていたりする。それに妙なマウントを取りに行くような文章になっておらず、不快さがない。沢木の持つ視点が若桜木氏のような妙な上からの視点でないのである(ちなみに……知ったことではない)。

それに書き方が非常に丁寧だ。沢木耕太郎はノンフィクションも書く人なので、取材というか情報の取り扱いが丁寧なのである。(……知ったことではない)

もともと沢木耕太郎のファンという贔屓目があるにせよ、他人や他人の書いた著作への扱い方に圧倒的な差がある。

 

若桜木氏の講座はバックナンバーがある。

それにざっと目を通すとわかることがある。

他人の不出来の指摘はできるのであるが、それを実際にブラッシュアップするための方策についてはなんら書かれていないということだ。

氏曰く、「新人賞をとるにはうまさよりも、卓越したアイデアが重要だ」らしい。しかし、その卓越したアイデアをどうやって手に入れるのかが書かれていない。文章の巧拙は書いてりゃうまくなるもので、そこを指摘してもあまり意味がない。

 

以前大沢在昌の文章講座を読んだが、その点についても詳述があったように覚えている。

masarin-m-dokusho.hatenablog.com

 

沢木耕太郎は独自の視点を得るために四苦八苦している部分がよく見えるのである。(知ったことではない)

文章を読んでいれば、その視点をどうやって得るのかがよくわかる。

文章を書くというのは一種の技芸だ。スポーツや書道などもそういう部分がある。学習もそうだ。技芸に必要なのは、指摘ではなく、一流のお手本だ。

「教えてやる」のではなく、「やってみせる」のが大切なのである(知ったこ……)。

 

結局、書いている文章自体が、お手本になりうるかどうか、それが一流と三流を分けるものだ。二人の文章を読んでいてよく理解できた。沢木耕太郎と若桜木虔はほぼ同い年なのだが、どこが二人を分けたのだろうか。