えこさんのブログをまとめ読みしていたら、そんな文言が眼に入った。
「本当だな」と思った。
仕事とは言えない、お手伝い程度のタスクで(かっこつけた)、多くの書物を渉猟し、「共生社会」について考え続けた。
近代の後にくる、ポストモダンは共生社会だ、云々の話はここでは置く。
多くの書物は紙束になり、狭い部屋をさらに狭くする。
一念発起して、久しぶりに自炊の旅を敢行した。
幸い、昔使っていたスキャナーがまだ使える様なので、セットアップした。製本された状態から、紙束に断裁して、スキャナにセットする。スキャナはどんどん紙束を食べて、PDFに変えていく。排泄物となった紙束は紐で束ねて、ゴミ捨て場に運んでいく。
この一連の作業を三月半ばから繰り返している。
スキャナは紙の重なりを、超音波を使って感知する。その精度は高いのであるが、本によって何度も重なりが感知される。紙質には拠らないらしい。上級の紙でも詰まるし、わら半紙の様な紙でも通過する。
昔から思っているのだが、この超音波のせいだと思うのだが、やたら肩が凝る。だから長時間は使えない。
別に思い出でもないので、それらの本に対する思い入れはない。ただ手に入れるのに、東京駅の丸善まで行って、立ち読みしなければならなかったのは大変だった。使えるかどうかを吟味しないと、おいそれと買えなかった。
人の心はなんともいたしがたく、共同作業者の心変わりで、吟味したはずの本も、半分は使えなくなった。聞いたときは、溜め息一つで許した。大人になったのか、体力が尽きたのか、瞑想が利いているのか。
恨みを込めて、カッターの刃をそんな本に滑らせる。
そんなときの本はなんとも詰まる。
たぶん、そう感じるだけで、気のせいだ。
家人が強行して髪を切りに行くと言っている。
不要不急ではない。さる催し物のために行かねばならぬ。
家人は身の回りを整えることに極端に興味を持たず、下手だ。
朝髪を洗って、ドライヤーをかけて、わけの分からない髪型で職場に行くこともしょっちゅうだし、そのまま夕方帰ってくる。絶句することもある。
だから、定期的にその世話をしてくれるところへ行かないと、酷いことになってしまうので行かねばならぬのである。
ただ、ちょっと心配だ。
こんなご時世だからね。