以前映画でアウンサン・スー・チーさんの映画を紹介した。
その最後の方に、ロヒンギャの虐待について、ほんのちょこっと触れた。一応、こういう自伝的な映画は、否定的な部分を全面に出して書いてしまうと興ざめになってしまう。基本的に映画のレビューは見て欲しくて書くので、それにつながらないものは書かないようにしている。だから、深くは触れなかった。
いま、スー・チーさんの政治はどうも評判が悪い。
そういうのは民主主義的だと思えないのかもしれないが、顔役としてバックにいた方が良かったのかもしれない。王政みたいだけど。
ロヒンギャの虐待から尾を引いているのかもしれない。
ミャンマーの人々の評判も芳しくない。
「軍事政権と同じだ」
というのが、感想らしい。
思想家が優秀な政治家になれるわけではない。
思想的「正しさ」はそのまま実行してしまうと、人々を苦しめてしまうことになる。優秀な政治家は「正しさ」を飲み込みやすいように下降できる人なのかもしれない。
その意味でスー・チーさんは適性がなかった。
その根にはロヒンギャの虐殺があるのかもしれない。
ロヒンギャとはイスラム教を信仰しているボートピープルである。
ミャンマーには原理的に仏教を信奉している人々というのがいて、スー・チーさんは政権奪取のために、その勢力と結びついた。そのために、ロヒンギャを追い詰める結果になった。この辺りが国際的に評判が悪い理由だろう。
そして、上記の記事で、「日本で何をしたいのか」と聞かれて、「日本には興味が無い」と答えてしまった。
スー・チーさんが日本で親しまれていたのは、日本に留学経験があることも含まれる。つまり、親日家だからだ。日本という国は、「私は親日家です」ということをポーズでいいから示せば、すぐに人気が出てしまう国だ。
レディ・ガガがそうだった。来日したときに、ニコニコしながら礼儀正しく振る舞っただけで、一気に評判が上がった。そういう国なのである。自分たちにニコニコしてくれるお客さんには非常に甘い国なのだ。
問題は、スー・チーさんにそう耳打ちするブレーンがいなかった。そして、スー・チーさん自身がそういう情報収集をしようという気にならなかったことだ。我が国ながら、日本はチョロい国だろうに。
政治家自身がすべてができる必要は無い。優秀なブレーンを集めれば良いのである。
スー・チーさんにブレーンがいないという病根があると感じるのは私だけだろうか。それともやはりロヒンギャの一件以来、人が離れていったのだろうか。
狭量な「正しさ」が人々を苦しめてしまったのではないか。バイデン政権も含めて、これからの世界の潮流になっていく気がする。
「元の濁りの田沼恋しき」になるに決まっている。バランスを正しく読み取る必要がある。
菅首相を見ていてもブレーンに関して同じ感じがする。
ろくでもない先輩が幅を利かせて、本当に政権のことを考えてくれるブレーンがいない。会食をやめてくれ、と言っているのに、先輩に呼び出されて、人寄せパンダのようにみのもんたと一緒にステーキを食わされたり、「Go to」に関して、先輩は暗躍したりした。
最近は、二階に居座るろくでもない先輩は、後輩を使って放逐したという噂がある。
それはそれでとてもいいことだと思う。
クーデターにならないように・・・・・・。
天声人語みたいな文章になってしまった。