経団連会長の中西氏によって、就活協定廃止の提案があった。
別に廃止宣言ではない。
当方は大学時代、就職活動で査収面接の一つ前の面接まで進んで、直後に病気で入院してしまったという体たらくなので、就職活動に特に思い入れはない。
その当時からネットでのエントリーが導入され、その当時ですら、数十社くらいエントリーするのが当たり前になりつつあった。大学の学生課に、「絶対にメールアドレスを持て」と言われた。本当に役に立つ学生課、就職課で、「病気のことをどのようにすればいいのか、伝えるべきなのか、どうなのか」と相談に行ったらば、「言いたきゃ言えば」的なことを禿げの就職課の人間に言われたのをよく覚えている。ああ、これが世の中なのだ、と天を仰いで、愛校心がますます高まったことは言うまでもない。
だからあまり思い入れはない。
むしろ忘れたいことだ。
今の就職活動は数百社にエントリーする。
地獄のような話だ。「就活協定が廃止されれば、学生が勉強する時間が無くなる」というが、今もそういう状況だ。
我々が就職する遙か昔には、もっと牧歌的な就職活動が展開されていたらしい。
二、三社回るだけで、決まったそうだ。スーツすら着ないで、適当に面接に行って決まったそうだ。宮崎駿「風立ちぬ」で堀越が就職する時の感じだろう。あれを見ていて、「バイトの面接みたいだ」と思った。
「経済情勢が違うのだから」
いやそうでもないみたいだ。もちろん、大卒生が少なく貴重であったからそういうことが通用したのかもしれないが、結局教授などの紹介も多かったと聞く。もっともそういうことになれば、教授のパワハラが・・・・・・、云々かんぬん。
しかし、そっちの方がいいのかもしれない。
就活協定がなくなって、そういう牧歌的な状態に戻るのならば、それはいいことだ。
それを達成するためには、大学がもっと企業とのマッチングに関与することだ。
こちらのニュースでは、「就活ルールがなくなって困るのは、学生ではなく、それで若者を食い物にしていた大人でしょ」という趣旨の話が書いてある。そういうものがなくなれば、若者の自主性がもっと育つのである、と。
たぶん就活ルールがあろうがなかろうが、自主性や自律性は育つものは育つし、そうでなければ育たないだろう。
前回、「近代はとうとう終った。2011年に」という話を書いた。
この就活ルールも、ものすごく近代的な制度である。
もっとポストモダンにあった制度に換える必要がある。
もっと、個人と企業の実情に合ったものが、学生・企業双方に提案されるべきなのだ。
そのために大学ごとにお見合いパーティ的な催しを開いて、マッチングしたらいいと思うのである。
そのパーティに参加する企業は、その大学の卒業生の働く会社。
「まあ、卒業生が働いてるくらいだから、うちの学生にあってるんだろう」ということだ。毎年卒業生が多数入る業界や企業がそこに揃い、話をする。きっとアットホームな空気のなか、自分にあう企業を探せるだろう。
もう学歴フィルターがあるのは当たり前の常識だし、高望みして大企業に行こうとしても馬鹿大学出身者なら、意味が無い。自動的に弾かれるんだから。もう公になってしまったから、堂々と企業はフィルターをかけるだろう。だったら、その学生たちにあう企業をマッチングしてしまえば良い。
「いやオレはもっと夢を見たい」
そういう学生も居るだろう。おそらく現代ではかなり少数派だと思う。
そういう学生には別のパスを用意すれば良いのである。
先に挙げた記事に一つだけ共感することがある。
あの就活制度は企業も学生もメリットがないと思っているはずだ。
だって、あれは前時代的な採用制度なのだから。とにかくマンパワーをかき集めるための方法なのだから。
きめ細かく学生の質を確認できるわけがない。
そのためには、多くの時間語り合い、ゆっくりと心を開かせる必要があるのである。
先輩たちはゆったりと就職活動をしていたそうだ。
そういう場ならば、リラックスして本音で語ることもできただろう。
採用する側にもその方がメリットがあるような気がするのである。
だから、大学がもっと動いて企業と学生のマッチングをするようにした方がいいと思うのである。
こういう人が食い物にしているのかもしれない。