また不安の泡が沸々と頭の中に浮かんできたので、少し文章を書こう。
夏目漱石が「吾輩は猫である」を書いたのは神経症の治療のためだったことは有名だ。
行ったことはないが、きっとカウンセラーも、患者自身が言葉で自分の状況を説明するのだろう。
言葉には癒す能力がある。それはきっと、頭の中にあるものを言葉で整理するからだろう。
コロナ禍において、私はすっかり入院モードに入っていることは書いた。20代に毎年のように入院していて、その時とメンタルが似通っている。それはコロナ禍に入って、昨年の春の緊急事態宣言の頃には気付いていた。
きっと入院モードにはなっていなくても、病人のような不安感、心理状態の人も多いだろう。
病人にとって、最も厄介な人は無理難題を押し付けて来る人か、説教する人だ。
病室の硬いベッドに横たわって、外出も医師の許可がなければできず、ちょっと病室を離れると看護師が心配して探しにくる状況でも、人というのは愚痴を言うものだ。何もできないのに、そういう状態になるのはとてもきつい。何かをすべきなのに、何もできないというのは、しばらく尾を引く罪悪感に付き纏われる。
もっとしんどいのが、説教する人だ。
ただでさえ、入院患者は自分が入院しているというシチュエーションは、自分の過失によってもたらされたと想いがちだ。その傷口にワサビを塗り込んでくる人というのは存在する。私の場合、往々にして母親だったりするのだが。母親は世間話のように愚痴を言う。それを聞いているのが入院中はとてもしんどかった。
これが非常に落ち込む。
今、世界中が病人のような心理状態だったとする。いや、私にはそうにしか見えない。
どうしても病人というのは、自己の来し方を振り返ってしまうものだ。そして、後悔し、自分を責めたり、他に悪い要因を探そうとする。探しては落ち込むのである。もうどうしようもできないから。
他人が正義を語るというのは、そんな心理状態の人間を説教するのとちょっと似ている。
どうもコロナ禍に入ってから、「正義のはなし」を聞くのがしんどくなった。どうしてなんだろうと、ずっと考えていた。
たぶん、入院中に説教される気分に似ているからだろう。
特にNHKなどが、真っ向勝負で差別の話などの特集を組んでいる。初めはそうでもなかった。「正義を片手に人を叩き殺す連中」の話だけが聞いていてきつかった。しかし、きつい話の範囲がどんどん広がって行って、今では「正義の話」自体が聞くに耐えないものになっている。
もうずっと鶴瓶を見ていたい気分だ。