今日の十分日記

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原点回帰の雑記ブログ。十分で書ける内容をお届けします。十分以上書くときもあるけどね。十分以下もあるし。

2018年 平成最後の年の総括ーー十分日記212

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時節柄こういうテーマで書いてらっしゃる方も多いと思う。

今年を一言で表すと、「体調不良」。この四文字に集約される。

だが、この体調不良は今年に限ったことではない。この二、三年この調子だ。病院に行くか迷うレベルの時化(しけ)がつづき、病院に避難せねばという大波がたまにやってくる。

二十代と違うのは、大波がやってくるともう入院せねば回復しなかったのが、復調できるようになったということ。これが一番の違いだ。二十代の感覚では、時化が始まった段階で、諦念せねばならなかった。もう身体の数値は暴走状態になった。治るだけましな気もするが、時化が引かないのも困る。十代ならば時化のただなかでも受験勉強などをした。できるにはできたが痛いしっぺ返しも来た。

 

時化の時に読んだ文章を時化が去った今になって読み直した。

なんだかピンとこない文章ではあった。が、再読すると自分の読み落としが多くあった。やはり時化の状態で文章を読んだり、受験勉強をしても、結局効率が悪いだけだ。

二十代は小康状態のとき(普通の人にとっては時化の状態)は同じゲームを繰り返しやっていた。取り憑かれたように。しかし、ゲームくらいしかできないのである。

特にアクションゲームをたくさんやると脳の発達に寄与するという報告があるが、疑わしい。同じゲームをやっていると、パターンが分かってしまって、アクションゲームはすぐにあきる。だから、どんどん新しいゲームをやらなければ意味が無い。もっとも、たくさんゲームをやると、アクションゲーム自体の癖が分かってしまい、ゲーム自体に飽きることになるだろう。

きっとそのレポートを出した人間はゲームが大好きなのだろう。

 

そういえばどこぞの哲学者が「家族の食卓」の意味を書いていた。

本来、食卓とは家族の想像力を養う場所だ。

「この食事を他の家族はどう思っているだろう」

食べながらそう考えるのだそうだ。

もちろん、作った人(昔は多くがお母さんの仕事だった)はそう思うだろう。

だが、作ってもらった人はそんなことは考えない。特に男はそうだろう。たいてい、「いつもと同じだろう」と思って食べる。仕事などで疲れて帰ってきたときに、カリスマ主婦が作るような気合いの入った食事は食べたくない。普通の焼き魚とご飯と味噌汁で充分だ。

男が「相手はこの料理をどう思って食べているだろう」と考えるのは、若い女と食事をおごったときだ。もちろん、下心があるのが前提だ。普通に会社の宴会で若い女が居ても、そんなことは思わないだろう。

要するにその哲学者は、昔女子大生を食いまくっていたのだろう。

言葉はなんとでも作り替えられるが、どうしてその言葉を使ったのか、行動は嘘をつけないものだ。

 

つらつらと関係ないことを書いた。

この数日に読んだ文章のせいだ。

先週の金曜日も昼間から盛大に吐いた。

ストレス性の胃炎なのか、感染性の胃炎なのか、判断が付かない。

ちょっと予定が立て込んでいたり、病院の定期検診が重なったりしていて、ストレスもあり感染リスクもあり、で、判断が付かないのだ。

定期検診が終った直後に起こったので、病院に行く予定もなかった。吐きまくりで動けなかったので、一日だけ様子を見ようと思っていたら、治ってしまった。一昨日の夜は水便が大量に出た。それも起きたら治っていた。

 

来年はもう少しなんとかしたい。

こういう体の弱さは鍛えたらなんとかなるものなのだろうか。

子どもの頃だったら、水泳などの運動をさせたのだろうけれど、大人になっても意味があるのだろうか。少し調べてみても、無駄だろう。健康のことは調べても絶対的な答えにたどり着けない。必ず相反する何を採用するのか、という主観の問題なのである。

とにかく、来年こそ。来年こそ。